雨の音で目が覚める

当事者研究、たまに呪詛

心と思考がまとまらない夜に

休職して10日程が経った。思ったより調子が悪く、自傷行為は続いているし、昼も夜も不安で落ち着かない日々が続いている。

頭にあるのは職場への申し訳なさと、自分がいないことが常態化することへの安堵感だった。働いている間、ずっと「まことさん、いらないよね」「まことさん、死ねばいいのにね」等の幻聴が続き、それは休職した今でも時折聞こえてくる。希死念慮は薄まることなく、引き続き足元にぽっかりとその口を開けたままだ。必要とされないことに怯える反面、自分がいなくてもどうにでもなると思っている自分がいた。今思えば、自分がいなくても良いと自分自身で思っていたからこそ、「いらない」と言われることに怯えていたんだろう。

これは主治医にも上司にも繰り返し伝えたことだが、職場の人は皆優しかった。きつい物言いをされたことなどないし、笑顔も多く、良くしてくれた。だから、これはわたしの問題なのだと。そうやって線引きをすることで選択肢を狭めていることはよくよくわかっているのだが、今のところ自分に出せる答えはそれしかない。もう少し頑張りたい気持ちもあったが、頑張った先で倒れることは目に見えていた。休職という選択が本当に正しかったのかは、まだよく分からない。

希死念慮を抱えて生きていくということは、難しい道なのだと感じている。普段は蓋が乗っているそのぽっかりと空いた暗い穴は、ほんの少しバランスを崩しただけでその姿を露わにする。その穴の存在を人に話すことは難しい。聞いた相手は驚くし、心配するし、何より相手を傷つけてしまうとわたしは感じているからだ。自分は死んでもいいけれど、周りの人には傷ついて欲しくないし、幸せでいて欲しい。自分が世界に不和をもたらしているだけで、自分が消えれば世界は正常に回っていくし、自分だけが世界から浮いた異常な存在であるような気がするのだ。そんな馬鹿馬鹿しい話があるはずないと頭では理解していても、心はそうは思わない。そんな冷徹なわたしの心が周囲を傷つけるのだとわかっているから、だから「死にたい」気持ちを話すことを避けている。

それでも、主治医や上司、知人に少なからずそんなわたしの思いを話す場面があった。皆、わたしの死にたい気持ちを肯定することも、否定することもせず、ただわたしが今「困っていること」に視点を当て、話をしてくれた。主治医はともかく、上司や知人は何を言ったらいいか分からなかったのかもしれない。それでも二人が繰り返し伝えてくれたのは「まことさんに会えてよかった」とわたし自身を肯定してくれる言葉だった。有難いと思う気持ちと同時に、申し訳なさもある。それは、そんな風に思ってもらえる価値が自分にはないと、そう自己評価をしているからに他ならない。しかし、それこそ口にしてはならない言葉だとわかっていた。相手がどう思っているか、それについてはわたしが口を出すことではないのだし、相手の思いを拒否することは、イコールその人を傷つけることであると分かっているからだ。

色々な人に救われていると思う反面、状況が好転しない自分の不甲斐なさに焦りや不安を感じている。必要とされたい気持ちと、必要とされない、もう自分が存在しなくても良いと思える安心感の間で、それでも生きるためには働かねばならない。死ぬまで生きていかなければならないことは、自殺を考えて泣いた幾夜の数だけ、わたしは知っているからだ。