雨の音で目が覚める

当事者研究、たまに呪詛

山と田んぼと、中途半端に栄えた駅前通りと、時刻表通りになんかやってこない海岸沿いから来るバスと

繰り返し同じ曲を聴いている。わたしは自己投影型なのでいろんなことに自分を重ねては首を絞めたり救われたりもしているが、最近はずっと首ばかりを絞め続けているので少し苦しかったりする。

 

寂しいなあと、時折感じることがある。一人でいることに抵抗はないし、こうやって毎日を消費していくことが生きていくことだと理解はしているけれど、ふと悶えるような寂しさを持った夜が襲ってくる。花本先生が言っていたのはこのことかあ、とやけに納得したのは未だ記憶に新しい。煙草とか、お酒とか、薬はこういう時のためにあるのかもしれないなと、車のダッシュボードに置きっぱなしの煙草と化粧ポーチの中にしまってあるライターのことを考えている。

 

当たり前のようにわたしも誰かと生きていくのだと思っていた。誰かを好きになって人生を共にし、子供を作り、そうして老いていくのだと。それがわたしの願望だったのか、それとも単なる刷り込みなのか、今となってはわかりもしないが、時折やってくる寂しさの理由はここに起因するのかもしれないと、そんなことを考えている。

人を好きになるってなんだろうと、ここ3年くらいずっと考えているが、答えは出ないままだ。わたしにとって好きの気持ちはイコール欲しいということだけははっきりしているが、世間的にはどうなのか、比べる余地がないのでわからない。胸から湧き上がる暖かい気持ちを愛と言うが、感情に温度が…??そういうレベルの話になってしまうのでちゃんちゃらおかしい。

わたしは欲しいものは何がなんでも欲しいし、手に入らなければずっと欲しがってしまう。そのくせ、手に入ったら途端に興味を失うのでそういうところは自分でもどうかと思っているが、そういう性質なのだと、もはや諦めたい気持ちもある。物に対してならそれでもいいが、それを人に対してもやってしまうからダメなのだ。他者はわたしを満たす道具ではないと肝に銘じなければならない。

リスロマンティックという言葉を知った時、「それ!!!!」とめちゃくちゃに大きな声が出た。同じくデミロマンティックという言葉を知った時、Xジェンダーの言葉を知った時もそうだった。去年一年間で、自分がどういった性質を持った人間なのか、既存の言葉に当てはめることができるのか、インターネットの海を必死で潜り見つけ出してきたものの、今やすっかり悩んでしまっている。自分が望んでいることと自分の持つ性質の解離があまりに大きいのだ。

元夫の存在も大きい。異性にとって(場合によっては同性にとってもだが)、セックスのできないわたしには価値がないと、そういう刷り込みがすっかり染み込んでしまった。愛情があるならできることだと、わたしもそう思って(縋って)きたが、どうやらその愛情すらも危ういようなのだ。人を好きになる感情ってなんなんだ。わたしには多分一生わからない。だってわたしにとっては全部「欲しい」なので。

家族からの愛情すら時折「無理」になってしまうことに気付いた時、罪悪感で潰れてしまうかと思った。生まれてきたことが罰かもしれない、でもそれって誰にとっての罰?そう考えてまた新たな地獄に足を踏み入れた気がする。いや、元より住民票は地獄に置いてあったのだ。世は地獄、そうでなかった試しはないのだし。

 

生きていることに対する罪悪感が日に日に増している。申し訳ないなあと思う割には大きな顔をして外を歩くのでクソだなと、そういう自分も嫌いになるなどして忙しい。

優しくして欲しいなあと思う。大事にされたい。そんな価値もないかもしれないんですが。

 

誰か一人の人に選ばれるってすごく大変なことだ。奇跡に近い。そしてその奇跡はわたしには起こり得ないと思うと、途端に気持ちが萎んでしまうような気がする。

自分が誰かに関わることがなんらかの害かもしれないと、そんな風に考えることがある。だからわたしは一人でいるのだと、もうしかしたらそう言い聞かせてるのかもしれないし、本当に人にとってわたしは有害なのかもしれない。少なくとも需要はないよなと思う。

人間としての需要がないって、言っててめちゃくちゃ悲しいじゃん。

 

誰かと一緒に眠って、朝は一緒に起きて、食事を作って食べて、仕事をして、帰ってきておかえり、ただいまと言い合って、食事をして、おやすみと言って眠る。そういう当たり前のことがしたいだけなのに、それすらままならない自分の特性と性質ってなんなんだろう。

 

東海の田舎、山と田んぼと、中途半端に栄えた駅前通りと、時刻表通りになんかやってこない海岸沿いから来るバスと、高齢者の運転するよろよろとした足取りの軽自動車と、めちゃくちゃに車間距離を詰めてくる黒いハイエース、田舎特有の鳴き方をする鳩と、親から援助を受けて建ったマイホーム群、ドン・キホーテでイキるヤンキーたちがいる、そんな穏やかな場所で今日もわたしはわたしにとっての地獄を生きてます。