雨の音で目が覚める

当事者研究、たまに呪詛

重たいランドセルを背負ったわたしが大きな声で泣いている

わたしは結婚して専業主婦という役割を手に入れた。夫には感謝しているし家事はわたしが人並みに出来る唯一のものだと思う。今この立ち位置にいるから思うことだろうけど、それでもわたしはこの年になっても未だに学校に通えなかったわたしを認められないままでいる。少し前にわたしは本当は学校に通いたかったのだと気付いた。小学校はもちろん、中学校もちゃんと三年間通いたかったし高校もきちんと三年で卒業したかった。大学にも通ってみたかったし、就職もしてみたかった。挑戦しなかったのはわたしだし、親に多額の費用をかけてもらいやっと二十歳で通信制高校を卒業させてもらったわたしが今さらこんなことを言うのはおかしいのはわかっているのだけど、それでもやっぱりわたしはみんなと同じが良かった。大多数が通る道を通っていたかった。現実を受け入れる強さがわたしにはないからだと思う。人と違うことが怖いしそのせいで上手くいなかったことが悔しい。そのくせ悔しさをバネに出来る体力も器用さも強さもない。十代の頃は人と違うことを力に出来ると思っていたけど、今のわたしにそんな勇気はない。

高校を卒業したことが唯一の救いであるが、同時に凄まじいレッテルがベタベタとわたしに貼り付けられている。一歩も二歩も遅れているわたし、同級生たちはそれぞれに、働き、結婚し、子供を産み、悩み、大多数が通る道を歩いている。喉の奥から手が出るほど羨ましく、妬ましい。今までの自分の経験や関わってきてくれた人や友人、全てがかけがえのないものだけど、わたしはそれすらも大切に出来ず、出来なかったことばかりに目を向けている。誰にでも悩みはある、耳が腐るほど聞いてきた。誰にでも悩みはある、だから黙れってことなんだろうか、愚痴を言うなということなんだろうか、お前の悩みなんかくだらないということなんだろうか。それとも羨ましがるなということか。

でも大多数の人は数字でパニックを起こしたり聞いたことをすぐ忘れたりしないじゃないですか。一か月のうち一週間しか快適な精神衛生じゃないなんてことないじゃないですか。自分の組んだルーティンに首を絞められたり、昔のことを思い出して泣いて喚いて自分も他人も傷付けたり、そんなことしないじゃないですか。訳もなく不安でざわざわして、生きることに臆病になったりしないじゃないですか。きちんと働いて食べて寝て、そういう生活が当たり前のように出来るじゃないですか。

母は昔から、あなたはあなたらしくいて良いんだよと言ってくれていた。それなのにわたしは、みんな同じを良しとする学校教育とあの女教師に未だに縛られ自分を呪い続けている。ふたつの相反する自己の考え方に挟まれて、重たいランドセルを背負ったわたしが大きな声で泣いている。あの女教師にただ認めて欲しかった、人とは違ったかもしれないけどその違いをちゃんと見て欲しかった。人と違う部分こそがわたしだから、そこをちゃんと見て欲しかった。女教師の中にいる子供像とわたしがかけ離れていることはわかっていた、でもちゃんとこちらを見て欲しかった。幼いわたしは大人とは教師とは、そうやって子供を正しく見てくれるものだと信じていたからだ。あの女教師が朝の読書時間に読んでくれる本が大好きだった、あの女教師にただ認められたくて全校生徒の前で作文を読んだ。いつまでもいつまでも、あの女教師に好かれず認められなかった小学生のわたしがわんわんと体育館の中で泣いている。