雨の音で目が覚める

当事者研究、たまに呪詛

心と思考がまとまらない夜に

休職して10日程が経った。思ったより調子が悪く、自傷行為は続いているし、昼も夜も不安で落ち着かない日々が続いている。

頭にあるのは職場への申し訳なさと、自分がいないことが常態化することへの安堵感だった。働いている間、ずっと「まことさん、いらないよね」「まことさん、死ねばいいのにね」等の幻聴が続き、それは休職した今でも時折聞こえてくる。希死念慮は薄まることなく、引き続き足元にぽっかりとその口を開けたままだ。必要とされないことに怯える反面、自分がいなくてもどうにでもなると思っている自分がいた。今思えば、自分がいなくても良いと自分自身で思っていたからこそ、「いらない」と言われることに怯えていたんだろう。

これは主治医にも上司にも繰り返し伝えたことだが、職場の人は皆優しかった。きつい物言いをされたことなどないし、笑顔も多く、良くしてくれた。だから、これはわたしの問題なのだと。そうやって線引きをすることで選択肢を狭めていることはよくよくわかっているのだが、今のところ自分に出せる答えはそれしかない。もう少し頑張りたい気持ちもあったが、頑張った先で倒れることは目に見えていた。休職という選択が本当に正しかったのかは、まだよく分からない。

希死念慮を抱えて生きていくということは、難しい道なのだと感じている。普段は蓋が乗っているそのぽっかりと空いた暗い穴は、ほんの少しバランスを崩しただけでその姿を露わにする。その穴の存在を人に話すことは難しい。聞いた相手は驚くし、心配するし、何より相手を傷つけてしまうとわたしは感じているからだ。自分は死んでもいいけれど、周りの人には傷ついて欲しくないし、幸せでいて欲しい。自分が世界に不和をもたらしているだけで、自分が消えれば世界は正常に回っていくし、自分だけが世界から浮いた異常な存在であるような気がするのだ。そんな馬鹿馬鹿しい話があるはずないと頭では理解していても、心はそうは思わない。そんな冷徹なわたしの心が周囲を傷つけるのだとわかっているから、だから「死にたい」気持ちを話すことを避けている。

それでも、主治医や上司、知人に少なからずそんなわたしの思いを話す場面があった。皆、わたしの死にたい気持ちを肯定することも、否定することもせず、ただわたしが今「困っていること」に視点を当て、話をしてくれた。主治医はともかく、上司や知人は何を言ったらいいか分からなかったのかもしれない。それでも二人が繰り返し伝えてくれたのは「まことさんに会えてよかった」とわたし自身を肯定してくれる言葉だった。有難いと思う気持ちと同時に、申し訳なさもある。それは、そんな風に思ってもらえる価値が自分にはないと、そう自己評価をしているからに他ならない。しかし、それこそ口にしてはならない言葉だとわかっていた。相手がどう思っているか、それについてはわたしが口を出すことではないのだし、相手の思いを拒否することは、イコールその人を傷つけることであると分かっているからだ。

色々な人に救われていると思う反面、状況が好転しない自分の不甲斐なさに焦りや不安を感じている。必要とされたい気持ちと、必要とされない、もう自分が存在しなくても良いと思える安心感の間で、それでも生きるためには働かねばならない。死ぬまで生きていかなければならないことは、自殺を考えて泣いた幾夜の数だけ、わたしは知っているからだ。

心に住む人

具合が悪くなってくると、頭の中で遺書を認めるようになった。風呂で頭を洗いながら、ドライヤーで髪を乾かしながら、猫の食器を洗いながら、母に向けてわたしは遺書を認めている。

「わたしはわたしでいることに、もう疲れてしまったんだと思う」

「お父さんとお母さんみたいになりたかった。姉や姉の旦那さんみたいになりたかった」

「こんなにも愛を注いで育ててくれたのに、わたしは人に愛を与えられなかった」

「産んでくれてありがとう。生まれてきてしまってごめんなさい」

「わたしはわたしでない誰かになりたかった」

「死にたい気持ちを持って生きていくことは、とても疲れることだとわかった」

「家族でない誰かに、愛されたかった」

読まれることはないこれらの言葉たちを自分の中で反芻させながら、泣いたり、悲しんだりしている日々が続いている。

自分が死んだ後の、周囲のことを想像しながら眠っている。そんな話を上長にしたら、攻撃的な感じに向かうんだね、と意外そうな声を出された。わたしは自分で常に刃物か何かを持っているつもりでいるんだけど、周りからはどうやらそう見えてはいないらしい。

楽しいこともある。嬉しいこともある。でもそれを上回るほどの虚無感と苦しさに誘われて、希死念慮はひょいと顔を出す。

好きになった人に、ただ好きになってもらいたいだけだった。

好きになった人に、わたしのことを受け入れてもらいたいだけだった。

好きになった人と、ずっと一緒にいたかった。

わたしの求める幸せのかたちと、わたしが手に入れられる幸せのかたちがイコールでないことはよくよくわかった。それが苦しいことも、虚しさを伴うことも、よくよくわかった。それでも諦めることができずに、姉の手の中にあるものを羨ましく、そして同じくらい愛おしく感じている。

他人が怖い。でもそれと同じくらい、わたしは人間のことが好きなんだと思う。一人が好きだし、一人でいたい。一人でいれるし、一人が楽しいけど、でもそれに疲れてしまう夜は必ずやってくる。自分一人で安心のかたちを保つのは大変だ。心に誰を住まわせても、それはきっと変わりない。

わたしの心には母と、好きだった一人の人の姿がある。

好きになった人と、ずっと一緒にいたかった。その願いは叶わない。

山と田んぼと、中途半端に栄えた駅前通りと、時刻表通りになんかやってこない海岸沿いから来るバスと

繰り返し同じ曲を聴いている。わたしは自己投影型なのでいろんなことに自分を重ねては首を絞めたり救われたりもしているが、最近はずっと首ばかりを絞め続けているので少し苦しかったりする。

 

寂しいなあと、時折感じることがある。一人でいることに抵抗はないし、こうやって毎日を消費していくことが生きていくことだと理解はしているけれど、ふと悶えるような寂しさを持った夜が襲ってくる。花本先生が言っていたのはこのことかあ、とやけに納得したのは未だ記憶に新しい。煙草とか、お酒とか、薬はこういう時のためにあるのかもしれないなと、車のダッシュボードに置きっぱなしの煙草と化粧ポーチの中にしまってあるライターのことを考えている。

 

当たり前のようにわたしも誰かと生きていくのだと思っていた。誰かを好きになって人生を共にし、子供を作り、そうして老いていくのだと。それがわたしの願望だったのか、それとも単なる刷り込みなのか、今となってはわかりもしないが、時折やってくる寂しさの理由はここに起因するのかもしれないと、そんなことを考えている。

人を好きになるってなんだろうと、ここ3年くらいずっと考えているが、答えは出ないままだ。わたしにとって好きの気持ちはイコール欲しいということだけははっきりしているが、世間的にはどうなのか、比べる余地がないのでわからない。胸から湧き上がる暖かい気持ちを愛と言うが、感情に温度が…??そういうレベルの話になってしまうのでちゃんちゃらおかしい。

わたしは欲しいものは何がなんでも欲しいし、手に入らなければずっと欲しがってしまう。そのくせ、手に入ったら途端に興味を失うのでそういうところは自分でもどうかと思っているが、そういう性質なのだと、もはや諦めたい気持ちもある。物に対してならそれでもいいが、それを人に対してもやってしまうからダメなのだ。他者はわたしを満たす道具ではないと肝に銘じなければならない。

リスロマンティックという言葉を知った時、「それ!!!!」とめちゃくちゃに大きな声が出た。同じくデミロマンティックという言葉を知った時、Xジェンダーの言葉を知った時もそうだった。去年一年間で、自分がどういった性質を持った人間なのか、既存の言葉に当てはめることができるのか、インターネットの海を必死で潜り見つけ出してきたものの、今やすっかり悩んでしまっている。自分が望んでいることと自分の持つ性質の解離があまりに大きいのだ。

元夫の存在も大きい。異性にとって(場合によっては同性にとってもだが)、セックスのできないわたしには価値がないと、そういう刷り込みがすっかり染み込んでしまった。愛情があるならできることだと、わたしもそう思って(縋って)きたが、どうやらその愛情すらも危ういようなのだ。人を好きになる感情ってなんなんだ。わたしには多分一生わからない。だってわたしにとっては全部「欲しい」なので。

家族からの愛情すら時折「無理」になってしまうことに気付いた時、罪悪感で潰れてしまうかと思った。生まれてきたことが罰かもしれない、でもそれって誰にとっての罰?そう考えてまた新たな地獄に足を踏み入れた気がする。いや、元より住民票は地獄に置いてあったのだ。世は地獄、そうでなかった試しはないのだし。

 

生きていることに対する罪悪感が日に日に増している。申し訳ないなあと思う割には大きな顔をして外を歩くのでクソだなと、そういう自分も嫌いになるなどして忙しい。

優しくして欲しいなあと思う。大事にされたい。そんな価値もないかもしれないんですが。

 

誰か一人の人に選ばれるってすごく大変なことだ。奇跡に近い。そしてその奇跡はわたしには起こり得ないと思うと、途端に気持ちが萎んでしまうような気がする。

自分が誰かに関わることがなんらかの害かもしれないと、そんな風に考えることがある。だからわたしは一人でいるのだと、もうしかしたらそう言い聞かせてるのかもしれないし、本当に人にとってわたしは有害なのかもしれない。少なくとも需要はないよなと思う。

人間としての需要がないって、言っててめちゃくちゃ悲しいじゃん。

 

誰かと一緒に眠って、朝は一緒に起きて、食事を作って食べて、仕事をして、帰ってきておかえり、ただいまと言い合って、食事をして、おやすみと言って眠る。そういう当たり前のことがしたいだけなのに、それすらままならない自分の特性と性質ってなんなんだろう。

 

東海の田舎、山と田んぼと、中途半端に栄えた駅前通りと、時刻表通りになんかやってこない海岸沿いから来るバスと、高齢者の運転するよろよろとした足取りの軽自動車と、めちゃくちゃに車間距離を詰めてくる黒いハイエース、田舎特有の鳴き方をする鳩と、親から援助を受けて建ったマイホーム群、ドン・キホーテでイキるヤンキーたちがいる、そんな穏やかな場所で今日もわたしはわたしにとっての地獄を生きてます。

あなたの地獄はどこから?わたしは生まれた時から!

4月からトライアル雇用が始まりました。就労移行支援を受けつつも実際に企業と契約を結ぶ雇用形態です。

職場はとても和やかで、良い環境です。業務もさして難しいものではなく、自分にできる範囲の中にきちんと収まったものを振ってもらっていると感じるし、わたしの持つ苦手さも理解したその上で働かせてもらえているなあと、正直感謝しかない。

 

業務でつまずくこともなく、毎日休むことなく通い、職場の方ともある程度の関係性を作れているのに、緩やかに精神が死んでいく気配がするのはどうしてだろうか。

帰路の車の中で泣き、帰宅後やっとの思いで風呂に入り、暫く動けなくなったのちに猫の食事を準備し、ようやく動き出せたところでこの記事を書いています。

ここ最近ずっと死にたいし、ずっと許されたいと思っている。自己肯定がゼロです。

 

生きていることを許されたいと、自分がそう思っていることに気付いてから少し心持ちが変わってきたような気がする。生きていることを許されるためには、人から愛されるか死ぬかの2択だとわたしは考えていて、人から愛されることのハードルがわたしにとってはめちゃくちゃに高いのだと、そんな風に思っているから死にたくなるんだなあと思ったりした。

 

人から好意を持たれると気持ち悪いと感じる性質を持っていることに気付いたのはちょうど一年前くらいの時で、そして今日、家族からの愛情すらわたしは受け止めることができていないことに気付いてしまった。他者からの愛情にわたしにはどうしたって嫌悪感が伴ってくる。

そのくせ「愛されたい」と「許されたい」はめちゃくちゃに大きいので、「欲しいものは絶対に手に入らないのに欲しくないものだけは絶対に持ってる」になっちゃうんだよなあ。

 

業務関連でちょっと心の潤いになるメンズがいるんですが、やっぱりわたしは「欲しくなっちゃった」んですよね。なんせ「許されたい」ので。他者に対する愛情・恋愛感情ってわたしにはどうにも備わってないみたいなので、どうしても物と同等の「欲しい」だけになってしまうんですが(そこからすでに間違ってるんですけど)、今回もその「欲しい」気持ちで日々潤いを求めていたところ、どーにも彼とは縁がないことに気付いてしまってぽきりと心が折れてしまいました。

大事にされたい、優しくされたい、許されたい、愛されたいって気持ちがものすごく大きいんですけど、なんでここまでそれらが肥大化してるのかもわからないまま、心がぺしゃりと潰れてしまったような気がします。身の程知らずってこういうことを言うんだなあと思ったり。

 

職場に公式なライセンス(手帳など)はないけど明らかに発達があれですねって方がいるんだけど、彼(彼女)らが言っていることに対して周りの方が他意なくあれこれ言っているのを耳にするたびに、ああわたしはやっぱりあっち側なんだなって腹の中を冷たいもので撫ぜられたような気になってます。だってわたしは表出させないだけで彼(彼女)だと同じことを思っているし考えているし感じているし、彼(彼女)らの訴えはめちゃくちゃにわかってしまうので。差別的な言動があるわけではないし、本当にただの「違い」として扱われているだけなんだけど、それがものすごく痛い時があって、ここのところの精神のアップダウンはそこも影響してるかな、なんて思ったりもしています。

 

昔から双極の気質はあるんですけど、最近本当にアップダウンが激しくて少し疲れてしまう。朝めちゃくちゃに元気で万能感の塊であっても、職場についたら急に萎んでしまったり(今日がそれ)、朝にこりともできないまま出勤したくせ帰宅時はご機嫌だったり、1日の中で細かいアップダウンを繰り返したり、ああきてるなあと、自分の限界値を見極めるのが難しい。

常に人に笑われているような思考が頭の中にあって、そんなことはないのに、指を刺されているんだろうなとか、ガッカリされているんだろうなとか、そういう思考と日々戦っています。こうやって文字にするとすごくかわいそうだ。

 

食事が少ししんどくなってきたので量を減らしてるんですが、これも自傷行為だよなあと思ったり。煙草を買ってしまったのでどうしたもんかと悩み中です。吸わずにいられたらいいな。

 

リストカットしたいとか、お薬欲しいとか(これは最近本当に切実なんだけど)、とにかく自分を傷つけたい欲求と戦ってるけどそろそろ心が折れてしまいそう。いやもう折れたのでなんとかせねばいけない。

 

わたしが生まれてきたことをなかったことにして欲しい。そして家族にはわたしが存在しない価値のある人生をそれぞれ与えて欲しい。生きていることがこんなにも心苦しいって、誰がわかってくれますか?

生まれてきたことがそもそも罰なのかもなって思ったんですけど、それって誰にとっての罰だよわたしより周りの人間じゃんウケるって思ってやっぱり死にたくなりました。罰はいつまで全うすればいいですか。どうやって償えば許してもらえますか。

 

人は支え合い、関わり合って生きていくと金八先生が説いていましたが、そしたらわたし人でいる意味さしてないじゃんって思っちゃったんですよね。他者からの愛を受け止められない、そういう受け皿がない人間は生きていてもあまり意味がないのでは?

そしてこういう思考回路を持つ人間が職場にいること自体、なんかよろしくないんだろうなって思考回路になりつつある。愛に満ち満ちた職場にわたしは相応しくないんじゃないだろうか。

 

仕事で躓いているわけではないので支援所のスタッフさんにはあまり詳しく話さないようにしてるんだけど、マジでこんな風に精神が死んでいくことがある??って自分でもびっくりしてるんだよな。環境の変化からくるストレスだとは思うけど、だからって思ってもいない角度から殴られ続けて(殴っているのは自分だけど)どこまでやっていけるんだろうかと思いながら暮らしています。まあどこまでやっていくってやっていくしかないんだけど。お金もないしこのご時世で職は手放せないですし。

 

誰にでもできることしかできなくて、できないことは人より多いってことに今日気付いたんですけど、信じられないくらい自己肯定がゼロでびっくりした。うわあ死にたい。

助かります、ありがとうって周りはちゃんと言ってくれるのでこれは完全に自分が自分を許せていないだけなんですが、わかってても無理だよね。許せないです、自分のことが。

 

生きていくのって難しい。こうやって地獄を歩みながら、孤独に慣れていくしかないんだなあ。

 

 

 

わたしはこれからずっとこういう波を乗りこなしながら病気になる一歩手前でフラフラ地獄の淵を歩いて行くんだなあ。

さあ寝ようとベッドに入り、そんでめそめそと泣いてた。寝たらそのまま目が覚めることがないといい、そう思ってもそもそも全然寝付けやしないしお腹のちょっと上ら辺をずっと不安がぐるぐると渦巻いてる。この感覚は懐かしいな、実家で引きこもっていた時に深夜と夕方ずっと感じてたやつだ。薬欲しいな、飲むと楽になるんだよね、しんどいけど。煙草吸いたいしリストカットしたい、あれ痛いけど本当にスッと不安が消えて胸の痛みがただの腕の痛みに代わるんだよな。わたしはただ単に自傷行為がしたいだけです。苦しい、辛い、不安で堪らない。わたしが一人で生きていくにはこの世界はハード過ぎる。毎朝渡る駅前の横断歩道はとても見通しが良いから、ああここで轢かれたら過失割合10:0で親にも迷惑かからんかなあとか考えてもう本当にわたしはただ軽率に死にたいんだ。なんかほら、やっぱりそういうこと言うの良くないって思うじゃん。だから言わないの、誰にも。言うとさ、大変じゃん。悲しくなる人もいるし、慌てる人もいるし、励ましたくなる人もいるし。それはそれで有難いけど、でもそれはわたしじゃなくて相手方のことなので正直どうされてもあんまり関係ないんだわ。わたしが死にたいって声にしたことであなたたちの感情に波を立たせてしまってごめんね、申し訳ないよ、いやあでもしんどいからほんと、死にたいんだよね。もうそうとしか言えない、辛いよ、生きるの。死ねないから余計に辛いの。糸が切れて死ねたらどんなに楽かって夢想するばっかりだ。そういう自分が気持ち悪いし、他人も、もう全部気持ち悪いんだよね。えっわたしってなんのために生まれてきたんだ?とか、いやまあそんなの意味なんかないのわかってるけど誰だって自分の存在に意味をもたせたいでしょ。意味がなかったらわたしじゃなくてよかったじゃん。わたし生まれてこなくてもよかったんじゃん?ってそう思っちゃうしもう思っているけどさあ。もう励ましとか、そういうのもきついわ。共感も、反論も、もう全部いらない。死にたい。無がいいよ、無が。自分が恵まれてるの分かってるし努力次第でなんとでもなるっていうご意見には確かにそうかもしれないねって思うけど、こういう鬱症状がセットだとやっぱり人生楽しくないねえ。アンハッピーセット、鬱Mサイズです(にっこり)。

 

PMDDも関連してるとは思うけど特性として躁鬱がセットになってるの笑っちゃうよね。診断出たことないし医師がどう見てるのかも知らんけど。いやそもそもわたし医師にちゃんと話しないからダメなんだよな。でもあの人たち全然こっちの話聞かないし治療だってヤケクソじゃん。一概には言えません、わかりません、とりあえず薬で、そういう症状は病気じゃないから診断は出せない、嫌なら病院変えていいよ。はーい、わかりました。じゃあもういいっす。先生わかんないんでしょ?じゃあ自分でなんとかしまーす。病気認定とかは求めてなかったんだけど、ただちゃんと話を聞いて欲しかったんだけど、それは精神科医に求めちゃいけないことだってどうして誰も教えてくれなかったんですか?

 

ずっと泣いてる。泣いたってどうにもならないのに。不安の原因はわかってるけど根本解決のしようがないので対処療法的に早く寝るとか(寝れない)、ちゃんとご飯を食べるとか(ご飯が美味しくない)、好きなことをしてみるとか(好きなことをして楽しくなった分夜にどん底まで落ちる)、そういうことをして自分の首をギュウギュウと絞めています。何もしないのが良いんだろうけど、何かしてないと無理なんですね。何かしてないとっていうか求人検索とか書類作りとかなんですけど。発達が就職先決めるのってもう完全に博打だよね。当たり外れのおおよそ外れの方が多いであろうくじ引きをしている気分です。環境が合ってなかったら死ぬでしょ、人間関係が複雑になってくると死ぬでしょ、業務に適性がなかったら死ぬでしょ。まあ結局死ぬんだけど自分でできるのは一部の環境調整と業務適性の把握くらいであとは完全に運試し(死を伴う)なんだよな。そんでもって引きこもりもニートもやってたからブランクすごいし、勉強できなかったから最終学歴は高卒だし、それでも一人で生きていかなくちゃだから手取り20万ないときついっていやいや人生ってこんなにハードなんだって今更だけどびっくりしてる。同世代でも今貧困とかあるあるじゃん、若者の貧困ってやつ。その一般的な若者より明らかに能力低い奴が貧困にならないはずないんですよね。障害者手帳取ったから障害者枠で、なんて思ったこともあったけど、あれさあ、障害者枠ってさあ、完全に実家暮らし+障害年金受給可じゃないと無理だよね。なにあの額面、高校生でももっともらってるだろ、舐めてんのか。障害者だって障害の度合いによって出来ること違うんだから賃金も個人に合わせて変動させろや。それともなんだ?手帳持ちはみんな同じ程度の業務しか出来ない、やらないって思ってんの?控えめに言うが滅びてくれ。

 

いやもうこれ本当にただの愚痴なんだけど、言えるだけまだ良いにしたい。なんつーか、診断受けてよかったことほとんどねえわ。主治医とは仲悪いし、手帳取れても使える福祉は限られてるし、これまでのやりづらさが肯定されたのは嬉しかったけどだからと言ってこれからが生きやすくなる訳ではなかったしな。そもそも受けた診断はグレーゾーンだし、今のわたしの生きづらさって発達特性による生きづらさとは別なんだよね、グレーであることゆえの生きづらさなんだわ。結局障害者にも健常者にも当てはまらないからどちらの側に立っても歪みが生じるしどっちにいてもしんどい。安寧の地がないんだね。金銭的にも精神的にも。

 

こういう感じで死ぬまで生きるんだ〜って思って無になってる。死ぬまでっていつまでだ、もうなんか不慮の事故とかでサラッと死なせてもらえませんかね。嫌でしょ?社会だって役に立たない障害者嫌ってんじゃん。わたし以外の障害者はみんな優しいし努力家だしちゃんと周りのこと考えて働けるのでわたしが代理でサラッと死ぬのでどうか福祉を充実させてください、お願いします。あっわたしは障害者にも健常者にも当てはまらないからダメですか、グレーは死にながら生きろってことですね、わっかりました。死ぬまで地獄配置、承知致しました。

 

あ〜〜〜〜しんどい。ちょっと涙止まってきた。書くとね、スッキリするよね。こうやって騙し騙しやってくしかないんだよね。頭痛い、眠いのに眠れないけどこれ書き終わったらPC閉じて部屋暗くしてベッドでじっとしてようね。わたしはこれからずっとこういう波を乗りこなしながら病気になる一歩手前でフラフラ地獄の淵を歩いて行くんだなあ。

個人的な発達特性の記録【6~10】

前回「2.反復行動を好む」という特性を少し掘り下げましたが、

 

rn-pq.hateblo.jp

 

今回もそれに通じる発達特性からです!

 

 

 

6.予想がつかない・先の見えないことが苦手


 

これから先、なにが起こるのか把握していないととても不安になります。どんなことをするか何をすればいいのかどうしたらいいのかわからないとパニックを起こして泣いたりします。

 

忘れ物をしたことで見えなくなった先行き

小学生の頃、わたしは忘れ物をしがちな生徒でした。よく覚えてないんですが教室の前方、黒板の横に時間割表だとか教師から生徒への連絡事項だとかを書いておくスペースがあって、翌日の持ち物なんかも全部そこに書いてあったんです。教師は帰りの会などで口頭で生徒に持ち物はこれだよ、ここにも書いてあるよって伝えてくれるんですが、そうですわたしは「耳からの情報が記憶に残りづらい」んですよねえ。加えてあの頃は気が散りがちというかわりかしとボケッと考え事をしていた子供だったので尚更教師の話を聞けていませんでした。もしくはきちんと連絡帳などに持ち物を書いて帰ったとしても家に帰った瞬間に明日の持ち物の存在を忘れるんですよねえ。母はきちんと明日の準備をしなさいねとわたしに教えてくれていましたし、いつも使う教科書や筆記用具などはあまり忘れることはありませんでした。イレギュラーな持ち物に関してだけ、わたしは存在自体を忘れがちでした。

 

さて、忘れ物が多い話が何の関係があるんだよ、ってな感じなんですけどあります、良ければ聞いてください。

 

例えば習字の授業で習字セットを忘れたとします。忘れたことあります、へへ。習字の授業ではもちろん習字を練習するわけですから、習字セットを持っていないわたしはクラスメイトと同じように授業を受けることが出来ません。当時の思考回路としてはこうです。

 

 

授業開始5分前

あっ、習字セット忘れた、持ってきてない!どうしよう!みんな持ってきてるのに!わたしだけ持ってない!どうしたらいいんだろう。先生に言ったら叱られるかな。あっみんなもう準備始めてる!どうしよう、どうしたらいいんだろう。みんなが習字の練習をしてる中でわたしひとり何をしてたらいいんだろうどうしよう!!!!

 

 

です。もおおおパニックです。ドキドキして不安でたまらなくて今にも泣きだしそうでした。「どうしよう、どうしたらいいんだろう」ここ、ここです。習字セットを忘れた自分には気付けているんですが、そこから先どうしたらいいのかがわからなかったんです。今ならわかります、ええ、わかりますとも。教師に忘れ物をしたことを報告、授業が始まりそうだが姉に借りに行ってもいいか、もしくは学校の備品を借りることが出来るか、それとも先生と相談した上でわたしだけ習字セットを使わない授業に変えるか(ペン字とか?書き取りとか?)。選択肢は幾つもありますあったんです。まあでもそこは小学生しかも低学年ですから、見事に先の見えない状況にパニックを起こしたんですよね。

わたしと同じように忘れ物をしたクラスメイトで泣きだしそうになる子は一人としていませんでした。みんな飄々とした顔で教師に忘れました!と言いに行き、特になんのダメージも受けずに学校の備品を借りていたのを見てわたしは信じられない気持ちでいっぱいでした。

先生に怒られるかも、どうしたらいいんだろうと真っ先に思っていたわたしにとってクラスメイト達の行動は本当に理解不能でした。

 

 

先の見えない不安によって受けられなかった支援と診断

もうひとつ幼少期のエピソードを。

不登校になった際、発達障害を疑っていた母はわたしを病院へ誘いました。わたしはどうしても行く気になれず、母だけがわたしのことを相談しに何度か通ったらしいのですが当時の医師の見解は「多分そうだとは思うけど実際に本人を見てみないとわからない、連れてきて」とのことでした。その医師のもとへ27歳にしてようやく通い始め診断を受けることになったのですが、まあその話は置いといて。あの時ちゃんと病院に行っていたらなあ…と深い後悔の気持ちがわたしの心の中には常にあります。ではどうしてあの頃のわたしは病院へ行く気になれなかったのでしょう。

 

不安、その一言に尽きます。とっても不安だったんです。住んでいたところからふたつ隣の市にある病院だったのでまず道のりが不安でした。電車に乗る?バスに乗る?どれくらい歩くんだろう?。病院、というものに関してもイメージが湧きにくくどんな場所なんだろうどんな先生なんだろうどんな人たちがいるんだろう靴は脱ぐのかな怖い場所だったらどうしよう、と次々湧いてくる不安を止めることは出来ませんでした。特に不登校になったきっかけとして担任教師とのひと悶着があったため余計に「先生」ってものに対して不信感があったんですよね。母にそのまま不安に感じていることを伝えればきっと先が見えるように工夫してくれたと思うんですが、当時はただ「行きたくない」としか言えませんでした。先の見えないことへの不安によって必要な病院に行くことが出来なかった、なんて残念なことだろうと心から思います。

 

今では見通しを立てるために情報を集める、日常生活をルーティン化するなどの対策で不安に思う気持ちは減りつつあります。まあもちろん初めてのことはいつまで経っても苦手なままですが、それでも以前よりはパニックを起こしにくくなりました。

車を運転するようになり初めて通る道などは不安に思うことが多いのですが、最近はとても便利なものでスマホ実際の道路状況が確認出来たり航空写真で目的地が確認出来たりと、本当に本当に助かっています。事前の下調べでイメージを可視化することにより初めてのことでもある程度の予想が付き、その上ストレスが減るのであれば本当に願ったりかなったりですよねえ、有難い!

 

今回は先の見えないことがどんなふうに苦手なのか、というよりは幼少期にあった具体例を書いてみました。まあ大人になった今もあんまり変わらないんですけどねえ。感覚的には中身は小学生のまま身体ばかりが大人になってる気がしているのでいつまでもわたしの中身はきっと小学生のままなんだと思います(これについてはまた別の記事で掘り下げます)。

予想がつかない、先の見えないことが苦手、なんとなくですが伝わればいいなあと思います。

 

 

 

7.言葉のままに受け取る


 

冗談などは笑って言われればなんとなく分かるんですが、たとえば皮肉だったりわかりづらい冗談などは理解できないことがあります。言葉の裏側にある真意に無意識的に気付くことが難しいので、会話の際には細心の注意を払います。笑うタイミング、共感するタイミング、自分の意見を言うタイミング、今でもなかなか掴めないままです。

まことちゃんって面白いよねー!、小さい頃から何度も言われているんですが、こちらとしては面白いことを言ったつもりはないし至極真面目に話しているんですけどどうしてか相手にとってわたしは面白い人になることが多いです。こう言ったら面白いって言われるかな?と相手のリアクションありきで話をし墓穴を掘ることも多々あります。会話って難しい~。

 

読み取れたのは言葉の表面だけ

こちらもちょっとしたエピソードをひとつ。

わたし親子丼があんまり好きじゃないんです。鶏肉と玉ねぎを和風のだしで煮て卵でとじるやつ。ついこの間まで実家に住んでいたんですけど、その時に母が一週間の夕飯の献立を作っていたんですね。「今週親子丼するんだけどいい?」って聞かれたので、うーん、あんまり好きじゃないけどいいよって言いました。その時母は「親子丼そんなに好きじゃないんだ」と言ったので、うん、と言いました。

 

さて、今日の夕飯は親子丼の日。母が料理をする傍ら、わたしは母に話しかけつつダイニングに座っていました。その時母に「親子丼、あなた好きじゃないんだっけ?」と聞かれたので(この間好きじゃないって伝えてあるしきっと確認だろうな)と思ったわたしは素直に「うん、嫌い」と答えたところ、母から大変怒られてしまいました。母曰く、これから作ろうとしてる人に向けた発言じゃない、とのことでした。

もうすんごくびっくりして、えぇ…でもこの間は怒らなかったじゃん…とか、じゃあなんで聞くんだ?とか、好きじゃないって事実の最終確認じゃなかったのか…とか思いはしましたがいやあもう言われてみると確かに人の心がないですね。

 

後から母に聞いたところ、ポイントとしてあげられるのは「今から作ろうとしている」ところらしく、どれだけ事前に相手の好みを知っていたとしても今から作るメニューを目の前で嫌いと言われると人は嫌な気持ちになるらしい、です。いやあ、確かに自分が母の立場だったらブチ切れると思う、人でなしかよ!って思うもん。じゃあお前食わんでいいわ!って怒鳴る絶対。母からアドバイスとして「好きじゃないけどせっかく作ってもらうんだから食べるよ」等の返答が正解と教えてもらいました。む、むずかしい…。

 

 (この間好きじゃないって伝えてあるしきっと確認だろうな)ここ、この部分ですよね。

 

「親子丼、あなた好きじゃないんだっけ?」、この発言をわたしは母がわたしの好き嫌いを確認するために聞いたんだろうと読み取ってしまったんです。あまりに表面的すぎる…。母の真意はまあわからないんですが、少し忙しい日で母も余裕がなかったんだと思います。ちょっと苛々しているようにも見えましたし。そこでわたしのこの発言があったら確かに怒りたくなるよなあ…と納得しました、ごめんね。

 

 

人が話す言葉には大なり小なりふくらみがありますよね。その人がどんな意図をもって話をしているのか、わたしにとってそれを読み取ることはとても難しいことです。おかしなことを言って笑われたこともありますしその場の空気を白けさせたり乱したことだってあります。聞かれた質問にはストレートに答えるため、配慮を持てず相手に嫌われることもしばしば。さて、ではこの特性を要因とした困り感はどんなものなのか。最近あったエピソードを話します。

 

 

言葉のままに受け取りすぎた人間の末路

 就労支援所でとあるスタッフの方に「眼鏡がおしゃれでかわいいですね!」と話しかけて頂いたことがありました。わたしはふざけた丸眼鏡をかけているんですけど、自分ではまあまあ気に入っているのでとても嬉しかったんです。でも言葉には大なり小なりふくらみがあります。この人はどんな意図でこの発言をしたんだ…とわたしはすっかり疑心暗鬼になりました。今まで人の言葉をそのままに受け取り、そして非難され過ぎたんですよね。さて、話し掛けられたので返事をしなくてはいけません。頭に浮かんだ選択肢は「いえ、そんなことないです」と謙遜する「そちらも素敵なお洋服ですよね、かわいいなって思ってました」と相手を褒める「ありがとうございます」と無難に返す0.5秒ほどの間に頭をこれらが駆け巡ります。ワンテンポ遅れて返した言葉は「…ありがとうございます」でした。これが一番無難だと判断したので。会話は失敗することなく終わりましたが疲労は大きく残りました。相手が何を求めているのか、どう返事をすれば嫌われないか、この会話の目的は何なのか。大人になってからは常にそう考えながら人と会話をするがついてしまい、すっかり嫌気がさしています。

 

でもよく考えてみて、ねえ!!いや、そんなの定型さんでもわからんじゃん?!?!発達関係なしにみんなわからんじゃん?!?!

相手はこう言って欲しいんだろうな~とか、こういう意図で聞いたんだろうな~ってなんとなくわかっても完璧に相手の意図を把握できる人なんてごく少数じゃないですか。なのに!なのに!!!わたしはすっかり「言葉のままに受け取る」特性のおかげでトラウマ化してしまった「他人との会話」が恐ろしくなってしまい、常に疑心暗鬼を繰り返す生き物になってしまったんです。つ、つかれる…。

 

ただ、あれぇ…マズったかな…と不安になることはあっても実際に人から非難されることはぐんと減りました(家族に関してはもうなにも考えず思いつくままに喋るので申し訳ないと思ってはいますがリミッターを外して喋ることがストレス軽減となるので許して欲しい。言ってくれればちゃんと反省するしちゃんと謝るので…)。自分は相手の言葉をそのままに受け取るんだ、と自覚してからそれならばちゃんと気を付けていようという意識が生まれたんでしょう(生まれすぎて別の困り感は出ていますが)。ここは少し成長できたとこですね!よくできました!えらい!

 

 

場数を踏んで経験値を稼ぐ

会話っていうのはとにかく経験値を稼ぐしかありません。情報を集めてデータを分析、パターン化して使っていくことでトラブルはある程度回避されます。最初はものすごくしんどいんですけど(人に嫌われたり怒られたり笑われたりね…ハハ…)、でも勿体ないのでそれも全部自分の糧にしちゃいましょう。考えすぎて疑心暗鬼になるときによく思うのは「他人ってあんたが思うほどそこまで深く考えてないよ」です。気を張りすぎるのも良くないので適度に気にして考えていけるようになったらいいなと思います。

 

この特性の厄介なところは曖昧な指示を理解出来ないことです。「適当にやっておいて」「ちょっと待ってて」「これくらい」などがいまだに良くわかりません。適当ってどれくらい?ちょっとって何分?待っててってどこで?ここで?これくらい?どれくらい?!?!いやぁ、パニックに陥るさまが目に浮かびます(これについては15.感覚で物事を掴めないとも共通しそうなのでここでは簡単に終わらせます)。

的確な指示さえあればフルパフォーマンスを発揮できるよう尽力致しますのでどうかどうか、よろしくお願い致します。

 

 

 

8.見えないものは存在していない


 

存在を忘れる、が近い表現かもしれません。母はわたしをAHDHじゃないかと長い間思っていたみたいなんですけど多分それはこの特性のせいかなってなんとなく思います。

 

クローゼットにしまってあるもの、戸棚の中のものなど今でこそ把握していますがここまで来るのにかなりの時間がかかりました。しまってしまうとそれは無いものになってしまうんです。しまっておいたものが突如必要になった時にはとても困りました。もうそれはわたしの中で「無いもの」になってしまっているのでどこを探したらいいのかもわからないからです。これが解決したのは自分で部屋を片付けるスキルを身に着けることが出来てからでした。ただイマイチ不安が残るので、大切なもの入れスペース、普段使いスペース、ジャンル別収納スペースと分け、しまうときにはこのカテゴリ分けを必ず守るようにしています。それでも無くなるときには無くなるので(自分が覚えていられないという意味で)、青い顔をして泣きながら探す、なんてこともよくあります。

 

 

当事者研究をされている小道モコさんの著書、「あたし研究」の中で「見えないモノはないもの!?」という項目があります。

 

私にとって、見える/見えない、というのはとても重要なことなんです。

見えること⇒考えがおよぶこと

見えないこと⇒考えがおよび難いこと

 

…(中略)…

 

私は見えていること/モノがすべてだと思いがちです。

たとえて言うなら、視線ビームの行き届かないものは認知しにくい感じなんです。

 

あたし研究

あたし研究

 

 

なるほどこれかぁ…と納得しました。診断を受けた際にわたしにADHD傾向はありますかと主治医に聞いたところ、検査では見られないと言われ、うーん、じゃあなんでこんなに物がなくなるんだ??と不思議に思っていたんです。傾向として不注意特性は確実にあるんですけどそれではちょっと説明がつかなかった(現在改善されている訳ですし)ので小道さんの本を読み、なるほどお!と思いました。小道さんの「私は見えていること/モノがすべてだと思いがちです」、この言葉にまるで自分を見たような気がしました。小道さんはこの項目をこんな風に締め括られています。

 

「見えないモノに思考が及ばない」→「じゃあ、どうしたらいいのか」

具体的にどうしたらいいのか、工夫できる余地がある、というのは、大きな救いです。見通しのつかない暗闇を歩くその手に、懐中電灯を得たような、そんな救いです。

 

 わたしが自分の特性を理解していくことがわたしの救いになる。そう思うことが出来たきっかけは小道さんの本でした。

 

あたし研究〈2〉自閉症スペクトラム―小道モコの場合

あたし研究〈2〉自閉症スペクトラム―小道モコの場合

 

 

 

どうする???

さてさて、対策立てていきましょう!自己理解を深めて自分を救ってあげましょう!(なんか変な宗教みたいになってきた…)

まず見えなくなることで「無くなって」しまうものたちについて。上記でも少し触れましたがとにかくカテゴリ分けをしてしまいましょう!それぞれのおうちを作ってそこへ放り込みましょう!書類は面倒くさがらずにファイリングをしたところかなり便利で助かりました。大事なものファイルには・家の契約に関しての書類、・光熱費に関しての書類、・保険に関しての書類、・取扱説明書、保証書、などを入れています。そのファイルを置く場所が大事なもの入れスペースとなるのでそこへ通帳や失くしたくない郵便物などをしまっていきます。そんな感じで同じように服はここ、文房具はここ、本はここ、アクセサリーはここ、薬はここ、などなるべく持ち物を分散させないようにカテゴリ分けをしながら整頓していきました。まあこれ普通にみなさんやられていることなんですけど、その普通のことが出来るまでに10年くらいかかってます…へへ…。昔実家で暮らしていた時の部屋、すごいありさまでした。

 

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はい、汚部屋だった実家の部屋です。きったねえええええ…本当に汚い…ひどい…。これは母もADHD疑うわ~って思いますよねえ。これ、不思議なんですけど何がどこにあるのか自分でちゃんとわかっているんです。なので困ることは一度もありませんでした。どこに何を置いたのかはほとんど記憶していたのでこの頃物がなくなった!と慌てることはなく、むしろある程度片付けるようになってからあれがないこれがないと慌てることが増えました。しまって視界に入らなくなったものの存在をどうしたって忘れてしまい、そして忘れてしまうその特性にすら気付いていないので、物をしまう時に記憶しようという意識もなかったからです。自分の特性を理解して初めて、正しく整理整頓が出来るようになりました。

 

自分で片付けていない場所に関しては何度か開け閉めをすることでしまってあるものを把握、記憶することが出来るので人より時間はかかりますがきちんと元の場所に戻す、という行為をとれると思ってます。むしろ元の位置に戻したいだってなくなっちゃうから

 

俺の後ろに立つな

わたし背中側に人がいるとすっごい不安になるんですよね。これももしかしたらこの特性が関わっているのかなあと思うところなんですが、この特性以外にも要因はありそう。殴られたらどうしよう、とかいつ刺されるかわからない、とか随分バイオレンスな不安なのでこれまで他人から精神的に叩かれてきたトラウマもあるかもしれません。人がいる場ではなるべく壁を背にして座ったり全体を見渡せる場所に立つことで心の安定を図っています。集中もしやすいですし!心の中のゴルゴと共に毎日を暮らしています、へへ。

突然背中をトントンと叩かれるとびっくりするので出来れば前から手を振ったり声をかけたりしてくれると嬉しいなあ。

 

 

 

 

9.インプット・アウトプットに時間がかかる


 

知能IQの低さが関わってきてるのかなあと思う特性のひとつです。頭が悪い、理解度が遅いって言われるとまあそうですね…って感じなんですが。

 

情報を溜め込むバケツ

バケツがあります。そのバケツはそれぞれの物事に対してひとつずつ用意されていて、そこに必要な情報をわたしは詰め込んでいきます。詰め込んでいる最中に取り出すことは出来ません。だって今は詰め込んでいる最中ですから。たくさん、たくさん詰め込んでいって、あぁ!溢れる!、その時ようやくアウトプットが出来るようになる。イメージとしてはこんな感じです。バケツに水が溜まるのはある程度のスピードがありますが、わたしの場合は水ではなく、砂とか小石とか、スライム的な物体のような、溜まるのに時間がかかるもののような気がします。うーん、伝われ!

 

情報を詰めている最中に取り出すことは出来ません。もしかしたらこれは(12.ふたつのことを同時に出来ない)という特性とも関連があるのかもしれません。インプットするときにはインプットだけ、満タンまで溜まり、溢れそうだよ!となった時に初めてアウトプットが出来るようになる。爆発的な力が出るので良い効果をもたらすこともありますが、不の感情も同じように爆発しがちなのでなかなかに難しいところですね。

 

勉強の場では、学んでいることを自分の物にするまでに人より時間がかかるので歯がゆい思いをすることが多いです。一度落とし込んでしまえばいいのですが、それまでが大変ですね。アウトプットにもある程度の時間が必要になってくるので、なんというか、のんびり屋さんだなぁ~と自分を客観視するときもあったりなかったり。ただ、じっくり溜め込んだ分丁寧に出していける出していきたいと思っています。発達特性に関する当事者研究も今までじっくり溜め込んだ分、丁寧に書いていけたらいいなあと思っているので頑張りたいところ。無理せず、まあもともと人より発達がゆっくりなのだからねェ…と出せる時に出せる分だけ、を心がけていきたいです。

 

 

マイナス面とプラス面

人より遅いだとかは比べたところでもう仕方がないので(頭の仕様は変更できないのだし)人より遅いことで何が起こるか書いていきたいと思います。

まず劣等感が生まれます。わたしは生まれちゃいました。あの子たちは出来てるのにわたしには出来ない、わたしもあんなふうになりたかった!もう呪詛ですこれは…。

人より時間がかかってもいいんです。スピードで競うことはありません。ゆっくりやっていきましょうよ。今わたしは28歳になりましたが、この年でようやくひとりで市役所へ行き障害者手帳や自立支援制度の申請銀行窓口での光熱費の払い込みなどが出来るようになりました。部屋の片づけがきちんと出来るようになったのも25歳の頃ですし、料理をし始めたのは23歳になってからでした。20歳から一人暮らしはしていましたが、全く3年間も一体何を食べて生活していたんでしょうね…お金もなかったというのに…。発達障害を持つ人は一般的に成長が緩やかと言われています。緩やかでも、ちゃんと成長していけるはずです。少なくとも、わたしはそう信じたいです。周りと比べず、それはただの「違い」なのだと認識することが出来るとちょっと楽になるかなあ、なんて思います。わたしはまだまだ劣等感の塊なんですけどね!ここはわたしが今後乗り越えていく部分だと思います。乗り越えていきたい。

プラス面としては、上記でも書きましたが溜め込む時間が長い分、放出する際にはとても力強く丁寧であると個人的には信じています。誰かと比べて、ではありません。あくまで自分の物差しの中で、です。

 

インプット・アウトプットの早い人(姉とか)を見てるとうわいいなあ~~~~って心から思いますが、それぞれのペースがあることを常に頭に入れ、自分には自分のペースがあるのだと、そのままのわたしを受け入れてあげられるといいなあって思います。焦っても良くないですし。というか焦って始めたこと、今のところことごとく失敗してるんですよね…バイト、一人暮らし、結婚…うわ言ってて悲しくなってきた。時期がある時期があるんだよ全てのことには。しっかり肝に銘じて生きていきたいです。もう失敗したくない。

 

 

 

 

10.応用がきかない


 

思考回路の基本形が常に、~すべき~しなければならない、なので結構しんどいです。また他人にも~すべきを求める傾向があるので(自他境界の弱さが原因だと思ってる)周囲の人間からストレスを感じ、また周囲にストレスを与える原因にもなります。

 

ごみは毎回出さなければならない!

 毎週水曜日がプラスチックごみの収集日なんですけど、なんとなく朝起きれなくて出さない日があったんです。ごみ箱の中はまだまだ余裕があってあと2週間くらいは平気そうなんですね。それでもわたしの頭の中は「ごみを出せなかった」でいっぱいでした。どうしてでしょう。実家では父がごみの日には必ずごみ捨てをしていたんです。まあ4人家族なのですぐにごみ箱がいっぱいになるからなんですけど。月曜日と木曜日の可燃ごみ、金曜日のプラスチックごみ、週に3回、必ずごみ捨てをしていました。そうです、ゴミの日には必ずごみ捨てをしなければいけない、とわたしは思ってしまっているんです。いや、可燃ごみならね、そりゃ出した方がいいですよ。なので出しています、週に1度ですが…(可燃ごみを週に2度きちんと出さないことに関しても結構葛藤がありました)。このことをツイッターでつぶやいたところ、仲良くして下さっているフォロワーさんからうちもプラごみはそうですよ!とリプライが届き、あっ…えっ…みんなそうなの?!良かった~~~と酷く安堵したことを覚えています。

母にこのことを話したら「えっ、そんな風に思ってたの?別にプラごみなんか匂いもないんだし溜まるまで出さなくてもいいんだよ?」と言われ、早く教えてよ~~~~~と泣きそうになってしまいました。

~すべき、~しなければならない。この思考回路に苦しめられること、結構あります。しかもわりとくだらない(笑)。

 

 

わたしの呪い

わたしの生き方を苦しめている、~すべき、がもうひとつ、ロールモデルです。わたしが幼少期に選んだロールモデルは当時ごく一般的なものでした。年齢に見合った進学、就職をし、結婚をし、子供を産み、歳を重ねる生き方です。もう見事に外れてます外れてしかいません。わたしはすっかりこのロールモデルから外れているにも関わらず、未だに年齢に見合った進学就職をしなければならないと思っているし、結婚をし子供を産み、歳を重ねていかなければならないとどうやら思っているみたいなんです。ただ結婚、子供についてはもうちょっとしんどくなってきたので考えないことにしているんですが、進学、就職の部分ですね。とてつもない強さのこだわりを感じます。そしてそのこだわりは自分自身の呪いになるんですよねえ。わたしが繰り返す吐く呪詛は大体がこの呪いによるものだと最近思うようになりました。

 

 

特性が組み合わさることで生まれる新たな困り感

この応用がきかない、という特性と言葉のままに受け取る、そこにワーキングメモリの弱さ、という特性が足されるとどんなことが起きるのか。

 

言われた言葉のままにしか動けない、という事態に見舞われます。たとえば他者に質問をしようとして「ちょっと待っててね」と言われたとしましょう。「ちょっと」の部分がわからないのでまずここで軽く混乱しますが「待っててね」の部分で待つことにします。わたしにとって待つ、という行為はその場に留まることなのでじっとその場に立ち静かに待つことにするでしょう。このとき何か別の行動をとってしまうと(スマホをいじるだとかその場を離れるだとか)、質問したかったことを忘れる恐れがある(ワーキングメモリの弱さ)のでわたしはただじっと聞きたいことを忘れないことに注意を払いつつ時が来るのを待ちます。本当は待ってる間、何をしていたっていいんです。忘れる恐れがあるなら軽くメモをして先に済ませたい用事があればそれをしたっていいし、座りたければ座ればいいんです。でもわたしはそれをしません。なぜなら「待っててね」と言われたのだからきちんと待っていなければならない、と思っているからです。

周りから見れば何であの人はじっと突っ立っているんだろう、となるんですけど、まあこういう思考回路が働いているんですねえ。客観的に見ると面白いですが本人は至って真面目です、本当にいちいち大変だなあ君は。

 

ルールこそが全て

人とのコミュニケーションにおいてこの特性は結構やっかいです。要約すれば「ルールこそが全て」ですから。~しなければならない、という思考回路はルールを順守することを強く求めます。小学生の頃、クラスメイトと遊んでいる最中にほかの子たちが改変されるルールにも柔軟に対応していたのに比べ、わたしはこうしなくちゃいけないのに!こうするべきなのに!と酷く怒り、そして悲しみ、まことちゃんと遊んでもつまらない、と同級生たちに嫌煙されることがありました。わたしにとってルールが改変されることは秩序が乱れることと同等だったんです。遊びだろうが関係ありません、最初に制定されたルールこそが全てでした。

 

今では人前で地団駄を踏むような無鉄砲さは無くなりましたが、自他境界の弱さから近しい人間には相変わらず、~すべき、を求めがちです。自分の首も、相手の首も、ぎゅっぎゅっと絞めていってしまうんですねえ。こうするべきなのに!これが正しいのに!苦しむ原因を作っているのは自身の特性だとわかってはいても、思考回路を変えるのはとても難しいことです。~必ずしもそうすべきということはない、そう思えるようになったらいいなと思います。

結構な白黒思想なのでこれは多分(20. 0か100かしかない)にも共通するんだろうなあと思うところ。

 

マイナス面とプラス面

マイナス面はまあ上記で挙げたとおりです。プラス面…うーーーん。ルールをちゃんと守ります。そこは評価してあげたい。どれだけ車がいなくても横断歩道を渡りますしごみの分別も守ります。まあ全てが俺ルール、ってところはあるのでもろ刃の剣って感じですね…

ここはもしかすると認知行動療法を使うところかなーとも思っています。ゆっくり自分が苦しくないようになっていけたらいいなと思っています。

 

 

 

今日はここまで!

 

個人的な発達特性の記録【2~5】

 

 

感覚過敏については前回サラっと書いたので、

 

rn-pq.hateblo.jp

ここからは日々の生活の中で役立ったりつまずいたりする部分をゴリゴリ言語化していこうと思います。マイナス面、プラス面も併せて書いていきます。

 

 

 

 

2.反復行動を好む


 

毎日をルーティン化することが好き。細かく決めすぎると性格上首を絞めることになるので大きな枠組みを作ることにしています。毎回同じ電車の同じ車両に乗る、毎日同じ時間に決まった番組を視聴するなど同じ時間に同じことを繰り返すことを好み、それにより情緒が安定する。同じ道を通ることも好きです。同じものを食べる、同じものを買う、一度使い始めたものは同じものをずっと使いたいです。

スケジュールを作るときには法則性を持たすように組むことが多いかな。(食料品の買い物は必ず月曜日、○○に行った帰りには必ずガソリンを入れるなど)

 

なんで??

先の見えないことが苦手だからです。とっても不安になる。

今度遊ばない?と友人から誘われた時に一番に思うことは「何時にどこでご飯を食べるんだろう、どんなことをするんだろう、何時に帰ってこられるだろう」が大部分を占めます。人によってはこういうことを聞き出すと「えぇ…別にそんなの当日の流れで決まるからわかんないじゃん…」ってまあドン引き案件なんですけど、ドン引きされてもいいから教えて欲しい、特にご飯と帰宅時間。先の見通しが立つだけで楽しいことをきちんと楽しめるようになるので仲の良い友人や家族にはぐいぐい聞くことにしています。

 

ルーティンを組むと見通しが立つ

ルーティンを組むってどんな感じだろうかって考えていた時期もあったんですけど、振り返ってみれば普通に行動していることがすでにルーティンみたいなものでした(大体毎日同じ時間に同じことしてた)。なのでちょこちょこ今の生活に合うように調整した現在の休日引きこもりスケジュールがこちら。

 

~8:00 起床(どんなに遅くても8:00にはベッドを出るようにしてる)

~9:00 朝ごはんを終えて着替える

12:00 自由時間

12:00~13:00 お昼ご飯

~17:20 自由時間

17:20 お風呂

18:00 ドライヤーかける+洗濯機回す

18:10 夕飯作り開始

18:45 洗濯終了、室内干し

19:00 夕飯

20:00 茶碗洗い

20:45 歯磨き

21:00 猫のお世話(トイレシート交換、歯磨き、おもちゃで遊ぶなど)

22:00~22:30 就寝

 

毎日大体この通りに過ごしています。風呂から夕飯まで細かく指定してあるのは毎日絶対にやらなくちゃいけないことで、そしてわたしが最もやりたくないことだからです。時間を指定することで絶対にやるんだぞ!やらなきゃだめだからな!と追いこんでいるつもり。有り難いことに「決めたことは決めたとおりにやりたい」っていう厄介な特性も持ち合わせているので(これについては10.応用が利かない、17.気持ちの切り替えが難しい、の二つに通じるところがありそう)おかげさまで毎日コツコツ続けられています、お風呂と夕飯。

 

先が見えないことに対する不安があるということは、もちろんハプニングにも弱いんですよね。ここでいうハプニングっていうのは「予定外のこと、想定外のこと」です。毎日を同じリズムで過ごすことで想定外のことは確実に減ります。ちゃんと見通しが立ちますから。しかしどうしたって起きてしまうハプニングは必ずあるのでそれに関しては対策が必要になってきます。

 

 

マイナス面とプラス面

 マイナス面に関してはルーティンが崩れた時、これに尽きると思います。自分ではどうしようも出来ないズレって必ずありますよねえ。電車が遅れるとか車のタイヤがパンクするとか行きたかったお店の臨時休業とか。以前は結構これにビクビクしながら生活してたんですけど、最近は常に二通りのパターンを想定する癖がつきました。いつも通りのルーティンで過ごせるパターンと、ハプニングが起こるパターンです。たとえば電車が遅れた時。駅ではどの程度遅れるのかアナウンスがありますし遅延証明をもらえば勤め先に提出できます。車のタイヤがパンクしたら契約している保険会社のロードサービスや車検でお世話になっている車屋さんに電話をすれば良いですし、行きたかったお店が臨時休業の場合は残念な気持ちを噛みしめながらまた別の気になっていたお店に行けばいいんです。ルーティンをこなすことを目的とするのではなく、わたしは先が見えないことが不安だからルーティンを組むことにしたのだ、ハプニングが起きたとしてもどうすれば良いか何をすれば良いのかがわかっていればハプニングはそれほど恐ろしいものではない、と常に自分に言い聞かせることで大きなパニックに陥ることが減りました。今にところ対応出来ないハプニングに見舞われたことはないんですが、もしそういったハプニングに直面しても出来うる限りの情報を集めて見通しを立てることが出来たらいいなあと思います。

 

ただやっぱり繰り返しの行動が好き、という部分は確実にわたしの中にあるのでたとえハプニングに対応できたとしても悔しさ悲しみ、苛つきなどはどうしたってあります。特にわたしは気持ちの切り替えに関して苦労する場面が多いのでとても難しいところです。

わたしの友人はみんな「やりたくなったらやる」スタンスなので見ててとてもハラハラします…えっこの間はこの時間これしてたのに今日はいいの!?とか、えぇっそんなスケジュールも立てないで行き当たりばったりで生活してて疲れないの?!とか(笑)彼女たちから見ればわたしの生活の方が息が詰まるとのことなので、うーん、発達特性だなあ!という感想です。

 

プラス面に関しては毎日同じことをコツコツ続けられる(興味のある分野のみ)、見通しを立てたいのでスケジュール管理やタスク整理が得意(だが数による)、遅刻をしない、などがあげられるかなと思います。

 

他人と関わる上では役立つ、というよりは負荷がかかる割合の方が多いかなぁって思います。自分のペースだけを重視して突き進める無鉄砲さは持ち合わせていないので、むしろ相手に合わせようと頑張りすぎて自滅パターン、結構あります。他者とのかかわりの中ではまあまあ役立ちませんが一人で過ごす分にはしっかり自分の癖として把握しているとストレッサーの排除に役立ちそう。

 

 

 

 

3.興味のない分野に取り組めない


 

興味のない分野に関することは1ミリも頭に入ってこない。読み物なんかだと大体乖離を起こします。どれだけ真面目に取り組もうと思っても上の空になりがちで人として結構致命的なんじゃ…と焦ります、焦ってます。

 

なんで??

 うーーーーん、うーーーーーーーん????

なんででしょう、わかりません。自分にとってどうでもいいことは本当にどうでもいいんです、だって関係ないじゃないですか、自分と。加えてどうやっても抗えない眠気と雑念がダブルで襲ってくるのでこれは不可抗力だと思いたい、思わせて欲しいです。

しかしその反面、興味のある分野には異常に執着します(これはわたしの場合ですが)。診断を受ける前に購入していた本にはこんなことが書いてありました。

 

狭くて深い関心事。

物を収集するのが好き

アスペルガー症候群の人は自分の興味のあることに、一生懸命に打ち込み没頭する傾向があります。

(大人の発達障害<アスペルガー症候群ADHD>シーン別解決ブックより)

 

 

あるあ…あるあるあるある!!!!収集癖あるあるう!関心ごとの幅は確かに狭いね!!わかるわかる!!

…ということなので、多分そういう傾向の脳みそを持っているということなんでしょう。狭くて深い関心事、読んだ当初はなるほどなあと思いました。

特に興味はないけどちゃんと情報が頭に入ってる人たちは本当にすごいです、尊敬します。すごい。

 

 

マイナス面とプラス面

マイナス面に関しては、まあそのまんまです。出来ません。多分そこは無理をしない方がいいと思うので(そういう脳みそならしょうがない)現段階で出来ることと言えば興味のあるもの、ないものをしっかり認識し、そして区別すること。 まあ日常生活においては興味が無ければ身の回りにも存在していないと思うので何か対策をする必要性はないと思うのですが、就職を考えている今はなるべく把握しておきたい…どんな仕事が出来るだろう?と考えたときにかなり重要になってくると思うので。自分がどんなことだったら取り組めるのか、どんなものが好きなのか、興味・関心のある分野はどれなのか。これらを把握できるだけでも目指す方向を決める手助けになると思う。

プラス面に考えるには裏を見ないとね。興味のない分野に取り組めないのだとしたら、興味がある分野には取り組める、そういうことです。しかも異常に執着するときた。今までの経験の中で一度はまれば奥底まで、ってな具合でのめり込むことが殆どだったのできっとガンガン吸収していくでしょう、吸収して欲しい。

 

今はとにかく好きなこと、興味のあること、やってみたいこと、その中で自分が出来そうなことをガシガシ言語化していくことに尽きるかな!と思います。発達特性に関する個人的なこのまとめもやりたかったことのひとつです、とっても楽しい。

 

 

4.数字に弱い


 

計算が苦手です。足し算、引き算、掛け算、割り算…2ケタになってくるときつい、奇数も苦手。電話番号やパスワード、他者の誕生日、年齢なんかもまったく覚えられませんワーキングメモリが弱いことも関連しているかも?ひらがな、漢字に比べると数字は確実に覚えにくいのでワーキングメモリの弱さ+数字に弱い、で結構な凹だと自分では感じています。

数字以外の情報を脳内から引っ張ってくる工程を経てようやく目的の数字を思い出すことが出来ることがあったりなかったり。

 

時間表記の14時とか18時とかはたまに混乱します。あとこれは関係ないかもしれないんですけど、頭に思い描いてる時間を口に出すときや人から聞くときには必ず時計そのものをを視覚で捉える癖があります。確認?かなあ、人から聞くときには覚えようとしてるんだろうなっていうのはなんとなくわかる。多分聴覚よりは視覚優位なので。口に出すときにはなんだろう、感覚的には答え合わせみたいな感じ。頭に思い描いているのは「12時」っていう数字で、実際に目で見てその数字と時計の盤面を照らし合わせたい?みたいな?うーん、上手く言語化出来ない…

 

料理をよくするんですけど料理本などを参考にするんです。しょうゆ大さじ、みりん大さじ1、砂糖小さじ1。まあ一度見ただけでは覚えられないのでひとつずつ、しょうゆ、みりん、砂糖、順番にひとつずつですね。見て、覚えて、行動に移すようにしています。聴覚よりは視覚が優位ですけどまあ一般的に優れているという訳ではないのでこういうことになりますね。

 

 

生活の中で行う工夫

覚えておかねばならないことはとにかくメモを取るようにしています。銀行口座の暗証番号、クレジットカードの暗証番号、自分の電話番号、自宅の住所、パスワード類。スケジュールは手帳とアプリで二重に管理をしています。スマホの画面だけだとなかなか覚えられないので紙に書く行為で記憶し易くしています。

全てをメモしておくって危機管理もクソもないですがこうしておかないとお金をおろすことも出来ないし自分の住所も覚えられません。大事なパスワードなどは必ず手帳にしかメモをしないようにして紛失、盗難などにはかなりの気を使っているつもり…せめてもの危機管理です。頭の中に置いておけないものは頭の外に置いておくしかないんですよねえ。全て頭の中に記録しておける人が本当にうらやましい、それだけリスクが減るってことじゃないですか。

 

 

マイナス面とプラス面

マイナス面はこちらもそのまんま、数字が本当に駄目です。記憶、計算、入力系も苦手っぽい。めちゃくちゃ気を付けてめちゃくちゃ神経使えば出来ないこともないけど、でもすっごい疲れるから出来ることならやりたくない

プラス面…ないかなあ~なにかひとつくらい欲しいけどなあ~。

数字が苦手なことで起こるポジティブな出来事を見つけたらまた追加記載したいです!

 

まあ避けて通れるなら避けて通ればいいよなって思ってます。計算には電卓を使う覚えておけないことはメモを取る数字に関する作業をしなくても良い環境を目指す、などなど。もしかして軽いLDもあるんか~なんて思った節もあるにはあるんですけど、学生の頃に数学で躓いたことってあんまりないので(数学担当教師がとても丁寧に教えてくれた&周りの学力レベルもそこまで高くなかったっていうのもあると思いますが)LDだったら多分もっと早い段階で躓いてるよなあって思うので多分違う。ただ数字に弱いだけです。

 

 

 

 

5.耳からの情報が記憶に残りづらい


 

診断を受ける際に用いられたWAIS-R(ウェクスラー成人知能検査)でワーキングメモリの弱さがわかりました。まあそうじゃないかなあとは思ってたんですけど本当に弱かったです。

 

ウェクスラー成人知能検査は、16歳以上の成人用に標準化された、ウェクスラー・ベルビュー知能検査の改訂版として、1955年2月に出版された、知能を測るための一般的な検査である。 知能は、目的を持って行動し、合理的に考え、効率的に環境と接する個人の総体的能力として定義されている。

ウェクスラー成人知能検査 - Wikipedia

 

 

以前、母との会話の中でこちらが質問した内容に対する母からの返答をすっかり忘れてしまい、5分後にもう一度同じ質問をしたことがあります(多分このときは返答を受けたことすら忘れてた)。相手からしたら、えっさっき言ったけど?!ってびっくりしますよねえ。でもこの時はわたしも自分に引きました、頭大丈夫かって思った。

今聞いてることを後で思い出してメモを取ろうかなっていうのは至難の業なのでメモが取れない状態だと結構きつい。忘れないことに全神経を使い、そしてすべてを忘れます

 

 

どうしてるの?

聴覚からよりは視覚から覚えることのほうが得意なので(繰り返し言いたいのはあくまで聴覚より視覚の方が覚えやすいというだけで視覚で記憶する能力が高いわけでは決してない)、視覚で捉えられるようにしています。基本的にメモ取りがマストです。

 

早いスピードでの指示、連続した指示、時系列の伴わない指示(伴ってても無理だけど)は何一つとして記憶に残せません。右から左へ、左から右へ。

ひとつひとつの指示をメモ取りし、時系列順、もしくは優先順に並び替えることは可能先の見通しが立つようになるので安心の材料になります

何か約束事を取り付ける時には口頭で行うより文面(手紙やメール)の方が安心感が強いです(12.多数のことを同時に出来ない、という特性も併せ持つので話を聞きながらメモを取るという行為が厳しい時もあるため口頭やりとりはかなり苦手)。

友人や家族との会話でのやり取りの中で約束事(○日にこうしようねとか)が出た場合には必ず「あとでLINEして欲しい」と伝えるようにしています。ここが難しいところなんですけど、耳で聞いたことを必ずしも忘れる、というわけではないんです。覚えていられる場合もある。自分の中での優先度なのか頭の中にしまう際の引き出しの場所の違いなのかはわかりませんが、覚えていることもあれば覚えていないこともある、不確定さが困り感のひとつとして挙げられます。

 

 

ワーキングメモリって??

 

ワーキングメモリとは認知心理学において、情報を一時的に保ちながら操作するための構造や過程を指す構成概念である。作業記憶、作動記憶とも呼ばれる。ワーキングメモリの構造や脳の関連部位を調べる研究が多数行われている。

ワーキングメモリ - Wikipedia

 

WAIS-Rの検査結果を主治医から聞いたときに、ワーキングメモリ(短期記憶)の弱さを指摘されました。一時的に記憶を留めておく能力が弱い、ということだと個人的に解釈しています。

 

ホワイトボードって便利ですよね。専用のマーカーを使って書いて、消して、また書ける。個人的には短期記憶ってホワイトボードのような役割を持っているんじゃないかなあと思っています。ではわたしの脳内ホワイトボードはどうなっているんでしょうか。おかしな話なんですが、しっかりマーカーで書き込んだにも関わらず、時間経過とともにどんどん文字が薄くなっていくそして消える。そんな感覚に近いです。しっかり全てを書き込んだのに、ふとホワイトボードを見ると虫食い状態だったり逆に一部分だけしっかり残っていたり、もしくは何も残っていなかったりします。そんなはずないのに、えっわたしちゃんと書いたよ?!と驚くことは未だにあります。そしてとても悔しいです、自分の能力値の限界を見せつけられているようで。絶対に忘れたくないことは意識的にメモ取りが出来ますが、そうでないものはもう覚えることを諦めるしかありません。

 

 

マイナス面とプラス面

メモ取りが出来ない状況で出される指示はごく簡単なものであれば3つ程度まで覚えていられる(はず)です。ただその指示をこなす間に話しかけられたり意見を求められたりすると覚えていられる確率がぐっと下がってしまいます。これから就職…!と意気込んでいる身としては何とかしたいところなのですが、ここは工夫していくしかないかな…と若干諦めムードです。ワーキングメモリを鍛える方法なんかもあるみたいなので長い目でやっていくといいのかなあと思ったりもしますがまあ多分やらないですねえ。日常生活を送るだけでも疲労が溜まっていくので+αで訓練すると疲労蓄積が倍になるのでなるべくなら避けたいっていうのが本音です。生きてるだけでしんどい

ただ料理をするようになって少し鍛えられているような気がします。頭の中で立てた一時的な段取りを作業が終わるまで保持しておくことが出来るようになったので!。次なにやるんだっけか~~~忘れた~~~ってなることもまああるんですけどそれでも調子が良ければスイスイっと作業が片付いてくれるのでとっても嬉しい。

 

状況によってマイナス面にも働くしプラス面にも働きます。メモ取りできなければ全てが終わりますが、メモ取り出来れば確実にタスクを終わらせようと奮闘するでしょう。極端ですが、それも困り感のひとつですねえ。

 

 

 

そもそも発達特性って?


 

これは今通っている就労支援所で自己理解プログラムを受けた際にスタッフの方が説明してくれたことなのですが、とても納得したので書いておきたいです。

 

 

特性っていうのはそれぞれの人が持つ癖のようなもの。そしてその癖は環境との相互作用で強弱が見えるものであって、癖自体には良いも悪いもない

 

 

環境と自己の特性が上手く組み合わされば強みに、上手く組み合わなければそれは欠点になります。自分にどんな特性があって、どんな環境であればそれを強み変えられるのか。大切なのは自分の癖をより深く知ること。そうすることで出来ること、出来ないこと、これがあれば出来る、これだけはどうしてもだめだ、と正しく自分を認知することができます。

 

発達障害に限らず、まあみんな傾向としてはあるんですよねえ。障害の域まで達してないけどちょっとASD傾向あるよねえとかADHD傾向あるよねえとか。わたしの母はADHD傾向ありますし父と姉はASD傾向があるなあと見てて思います。でもあの人たちは日常の困り感っていうのは感じてないみたいなので定型発達なんです、わたしとはそこが違う。

 

支援所で働いているスタッフさんでADHD傾向のある方ふたりが自分は過集中になりやすいし予定を覚えていられないから別のスタッフさんにリマインドを頼んでいるだとか、自分も過集中+衝動性の強さがあるから飲食で働いていた時に売上ものすごいの出したことあるんですよ!とかいろんなエピソードを話してくださってめちゃくちゃに面白かったです。ああ、そうかあ、こうやって自分の癖を知ることで対応できることって確実にあるなあと話を聞いていて思いました。定型・発達に関係なく自己理解を深め環境との相互作用を視野に入れて就職先を選ぶ、そして働く場所でもそれぞれの特性を生かし理解する社会の流れが生まれるといいなあと心から思いました。

 

 

 今日はここまでです!